壁の絵

 南からの突風に叩かれて、屋敷の窓ガラスはガタガタと大きく鳴った。そして、その音に反応するように、今まで長い間ベッドで眠り続けていたウズラちゃんのまぶたが微かに動いたのだ。窓辺の椅子に腰かけていた従者の男は、その様子にハッとして立ち上がった。有能な医師でもある彼は瞬時にその状況を判断し、そして部屋の隅でずっと成り行きを見守り続けていた『かの有名な金持ち』に声をかけたのである。
「旦那様、お嬢様の意識が・・・僅かではありますが、戻りかけています!」

 ウズラちゃんは深い闇の底から、天空に見える微かな光に向かって必死に手足を動かし続けていた。時としてその光は強くなったが、そう思った途端に黒い雲に覆われ、見失ってしまいそうになる・・・。だが、ウズラちゃんは決して諦めようとはしなかった。そして、その強い意志が、事実、ウズラちゃんの命をつなぎ止めていたのである。

 館の最上階の一室では『かの有名な金持ち』の老人がウズラちゃんを見つめていた。ウズラちゃんの容態に希望の光が見えてきたことは医師である従者から館に残っている他の従者すべてにも瞬時に伝えられ、沈んでいた皆の目に輝きが戻った。彼らは知っていたのである。この小さな少女の存在が、この館、いや、この町全体にどれほど大きな力を与えてくれるのかという事を。だが、一方で彼らは自分たちのすぐ目の前に大きな波が近づいてきている事を感じていた。すべての運命を左右する事になるであろうその波を目の前にして、事実、彼らはどうすることも出来なかったのだ。南風は同時に黒い雲を運んできた。湿った風が木々を揺らし、大気は荒れる前の予感を漂わせたまま、じっと様子をうかがっていたのだ。

 ウズラちゃんは、必死に手足を動かしていた。そのうちに、いつの間にかどこかの薄暗い廊下に立っている事に気がついた。だが、いくら手足を動かしても前に進む事が出来ない。・・・必死になって彼女は助けを求めた。だが、人の気配のないこの暗い家からは何の返事も返ってこなかった。廊下の突き当たりの壁に古びた一対の絵が掛かっている。彼女の目はその二枚の絵にくぎ付けになった。一枚の絵にそれぞれ一人の人物が描かれていた。一人は男、一人は女・・・。だが、顔が見えなかった。最初はこの薄暗さが原因だと思った。しかし、この暗さに目が慣れていくうちに様子が違うことに気がついたのだ。そしていつの間にか、ウズラちゃんは廊下の突き当たりまで進んでいて、すぐ目の前にその絵を見上げていたのである。二枚の絵とも顔の部分の絵の具が剥げ落ちていて不鮮明だった。所々、キャンバスの地が見えてしまっている。いや、そうではなかった。見つめているうちにその絵に描かれている人物の顔は徐々に醜く変形し、風化して崩れ落ちていっているのである。
ウズラちゃんは悲鳴を上げた。そして、その瞬間、周りを取り囲んでいた厚い壁が崩れ落ち、眩い閃光に包まれたかと思うと、信じられないほど静寂な、この現実の世界にいたのであった。
ウズラちゃんのまぶたはしっかりと開かれていた。窓からは光が差し込んでいた。自分をのぞき込む医師らしき男と、老人・・・そう『かの有名な金持ち』の老人。その目からは涙が流れ落ちていた。だが、・・・ウズラちゃんの心はそれを見ても何も感じることが出来なくなってしまっていたのである。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送