日本の曳山祭

九州 唐津くんち
11月2〜4日/佐賀県唐津市/唐津神社

唐津は旧城下町の情緒をたたえた城の石垣や蔵づくりの街並みが残り、ここを獅子や兜などの曳山14台が威勢よく曳かれる。曳山(やま)は19世紀(江戸後期から明治初期)に、木型を使って和紙や麻布等を幾重にも張り、数種の漆を塗り重ねて仕上げる「漆の一閑張」と呼ばれる手法で2年から3年がかりで制作されたもの。いずれも金箔などを施した見事な作品だ。
祭礼は、藩政時代は旧暦9月29日に行われていたが、大正2年に新暦10月29日、更に昭和43年より11月2〜4日に定められた。
2日は宵山で、夜7時半に曳山が大手口に集り、順に町中を廻る。程良く光量を落とした町中を、ライトアップされた極彩色の曳山がゆらゆらと進む。市内を一巡し夜10時過ぎ、神社前に勢揃いして解散。翌3日のお旅所神幸では、神社前より出発した神輿行列に曳山が供奉し、御旅所のある西の浜に曳き込む。昔は本当の浜だったらしいが、現在では海との間に小学校が建ち、校庭の延長のような場所に砂地を確保、毎年お旅所神幸のときのみ使用されるそうだ。正午、お旅所に3基の神輿が到着すると、一番曳山から順に曳き込みを開始する。車が砂地に食い込みなかなか進まない曳山を、曳山囃子と曳き手数百人の「エンヤ、エンヤ」の掛け声に合わせ豪快に曳き込む。午後3時、また順に曳き出しを行い、市内を一巡し各町内に戻る。4日は町廻り。各町内に一泊した曳山は神社前に集まり、前日と同じコースを巡行ののち、夕方、神社横の曳山展示場に格納される。
寛文年間に始まったといわれる歴史ある祭りで、「唐津供日の曳山行事」として国の重要無形民俗文化財に、曳山14台は県の重要有形民俗文化財に指定されている。(2003年11月2・3日)

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1.お旅所に並ぶ曳山
2.宵山
3.宵山。最後に神社前に揃う
4.お旅所神幸のスタート
5.お旅所になる西の浜の砂地
6.曳き込み直前の「上杉謙信の兜」
7.8.お旅所に並ぶ曳山
9.「亀と浦島太郎」の曳き出し


各町曳山

1番曳山・刀町(かたなまち)
「赤獅子」
2番曳山・中町(なかまち)
「青獅子」
3番曳山・材木町(ざいもくまち)
「亀と浦島太郎」
文政2(1819)年/刀町の木彫師石崎嘉兵衛、大木小助、塗師川添武右衛門らにより制作
文政7(1824)年/獅子細工人辻利吉、塗師儀七らにより制作
天保12(1841)年/須賀仲三郎制作

4番曳山・呉服町(ごふくまち)
「源義経の兜」
5番曳山・魚屋町(うおやまち)
「鯛」
6番曳山・大石町(おおいしまち)
「鳳凰丸」
天保15(1844)年/獅子細工人石崎八右衛門、脇山舛太郎、塗師脇山卯太郎、大工佛師庭吉、白井久介、永田勇吉、諸金物師房右エ門らにより制作
弘化2(1845)年/作者不詳
観光客、特に子供に人気のある曳山。2003年、22年振りに塗りかえられた。
弘化3(1846)年/細工人永田勇吉、塗師小川次郎兵衛らにより制作

7番曳山・新町(しんまち)
「飛龍」
8番曳山・本町(ほんまち)
「金獅子」
9番曳山・木綿町(きわたまち)
「武田信玄の兜」
弘化3(1846)年/陶工の中里守衛重廣(九代太郎右衛門)、中里重造政之らにより制作
弘化4(1847)年/作者不詳(一説には細工人石崎八左衛門、塗師原口勘二郎ら制作とも)
元治元(1864)年/細工人紅屋近藤藤兵衛、塗師畑重兵衛(あるいは石井久司)制作と伝えられる

10番曳山・平野町(ひらのまち)
「上杉謙信の兜」
11番曳山・米屋町(こめやまち)
「酒呑童子と源頼光の兜」
12番曳山・京町(きょうまち)
「珠取獅子」
明治2(1869)年/細工人富野武蔵、塗師須賀仲三郎により制作
明治2(1869)年/細工人吉村藤右衛門、近藤藤兵衛、塗師須賀(管)仲三郎、大工高嵜作右衛門、同作兵衛、同九兵衛、宮嵜利助らにより制作
明治8(1875)年/細工人富野淇園、塗師棟梁大木夘兵衛、塗師大木敬助らにより制作

紺屋町の黒獅子は
明治中期に消滅
(当時9番曳山?)
13番曳山・水主町(かこまち)
「鯱」
14番曳山・江川町(えがわまち)
「七宝丸」
明治9(1876)年/細工人富野淇園、大工棟梁木村與兵衛、正田熊之進、楠田儀七、塗師棟梁川崎峯次晴房らにより制作
明治9(1876)年/細工人宮崎和助、塗師須賀仲三郎、大工棟梁田中市次正信らにより制作



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